発想法が真逆なので言葉がまったく通じていない好例
私自身、どうしてコミュニケーションがうまくいかないのか、最近、あれこれと考えることが多いのですが、これなんか好例なのかなと思います。
私自身は帰納法的な論法、演繹法的な論法の両方を使ってしゃべってしまうことが多く、どちらかと言えば、帰納法的な論法を多用します。
しかしながら、一般的には演繹法的な論法でしゃべった方が多くの人に通じやすいということに遅ればせながら最近、気づきました。
この件で言えば、山本一郎氏は帰納法的な論法で水原さんという芸能人の論理的矛盾点 (あくまで、帰納法的な解釈での矛盾) を指摘しているわけですが、おそらく、彼女は一般的な、演繹法的な思考方法に基づいて、日本人的な名前を使うことを決定し、芸能活動をしているわけで、演繹法的な論法において、彼女はまったく矛盾しているわけではありません。
で、私が観察する限り、右翼系の人は帰納法的な論法のみで思考を展開し、一方、リベラル系の人の中に演繹法的な思考しかできない人が存在しているように見受けられます。
で、ツイッターだと文字数制限があるので、多様な表現ができませんので、多くの場合、どちらか片方の論法でしか話を展開できず、この例の場合は、山本一郎氏は帰納法的な論法でツイートしているので、演繹法的な思考で生活している人たちには言葉がまったく通じない、という話の展開になっているのではないかと想像します。
で、この記事自身も、普段の私の話し方のように、帰納法的な思考と演繹法的な思考を織り交ぜながら話を展開しているので、帰納法的な論理展開が苦手な人には話がまったく通じないものになっているような気がします。
ちょっと精神状態を緩めるとすぐに id コールされてしまう
これはある種の才能かもしれませんね。
最近、わざと精神状態を緩めて生活しているのですが、当然のことなのかもしれませんが、物忘れ等が多発しています。
はてなブックマークでも非公開にする操作とか、調べ物の裏取りとか適当にやっていたら、早速、id コールされてしまいました。
一方、日常のコミュニケーションの方はかなり改善できています。
精神状態を緩くしたので、他人の言葉への小さな間違いやミスが気にならなくなりましたし、自分と違った考え等に出会っても平気でスルーできるようになりました。
すると、副産物として、以前よりも相手が気軽に私に話しかけてくれるようになったり、話の内容も深いところまで話してくれるようになりました。
理想的には、今のゆるい精神状態を維持しつつ、はてなブックマークはしっかりと事実確認をしつつ、きっちりとしたコメントができるようになったり、物忘れもなくなるようになればいいのかなとは思いますが、このあたりの両立については、今後、検討・調整していきたいなと考えています。
暴力はあくまで手段。肝心なのは、そこに良心があるか、それとも単に慰み者として利用しているか?
日野皓正、中学生へのビンタは教育…「必要な時もある」/芸能/デイリースポーツ online
はてなブックマークにコメントすると id コールが飛んできそうで対応がめんどくさいのでこちらにメモ。
個人的には日野氏を全面支持。当然のことながら、やりすぎの感はあるけど、あの場でああいうことしちゃったら、止める手段としてはああやるしかない。スティックを奪っても手で叩き出すような興奮状態の子どもが相手なんだから。しかも、それ以前にしっかりと信頼関係ができている相手。
暴力というのは表面的に見えるものであって、規制・ルールで縛るのはその部分にならざるを得ないわけだけれども、人間対人間でぶつかる際に重要なことは、暴力を振るうか振るわないか、ではなく、その行為に良心があるか、それとも単に慰み者として相手を利用しているだけなのか、ということではないだろうか?
別の言い方をすると、言葉での相手に対する辱めだけで場合によっては子どもを自殺に追い込むことだってできる。
この件を利用してお金儲けしようとしているマスコミの人たちの心と、日野氏のこの中学生に対する心。私自身は後者の心の方が好きだな。
誤解が伝播している?
牛乳石鹸のWebCMが読めない奴が多くて驚く
上記の記事のテーマは「選択の責任」で、プレゼントを何にするかを奥さんが旦那さんが押し付けた、という仮定の元で話が進められているのですが、元動画を見ると、実際には、奥さんの方から野球のグローブの画像を使って、ちゃんとプレゼントを何にするかを指示してるんですよね。
で、おそらく、元動画をちゃんと見てない人が多いせいなのかどうかわかりませんが、上記の記事の内容前提でコメントを入れている人が多いようです。
誰も悪気があるわけではないのですが、結果的に誤解が伝播していっているようです。
こんな感じのことを指摘するのはなかなか難しいですよね。
実生活において、誤解した人にストレートに誤解している部分を指摘すると、多くの場合、指摘した人に恨みを持つと思いますし、放置したら放置したで誤解がさらに蔓延し、場合によっては二次災害のようなものが発生してしまいます。
むずい。
この手の議論はなぜか「0か1か」になってしまう
こんなもの、殺し合いをしている戦争状態の中では、大なり小なり、技術的に可能であればどこでもやっていることだと思うんだけど、どうして、この手の議論になると、「日本がやったかやらなかったのか」とか「認めるべき」とかいう話になるのかよくわからない。
この手の議論には、もう少し、理系頭の人が入る必要があるんじゃないかな、と昔から思っている。日本がやったか、とか、中国がいいとか悪いとか、理系頭からすると本当にどうでもいい。
理系頭で思考すると、0 か 0.01 か見たいな議論はほぼ不毛なんですよね。肝心なことは実質的にどうであったか、相対的にどうであったか、本質的・重要な論点はどこか、将来、どう活かせるか等といった点。
一方、こういった歴史的なことって、いつどこで何があったか、みたいな断片的な情報の羅列である場合が多く、だからなんなんだ、っていう感じでなかなか興味がもてない。しかも、それらが事実であるかどうかはまったくもって確証はない。そんな情報から論理構成し、話を作り上げる気には私はならない。
そんなわけで、この手の言論は「ふ〜ん、そうなんだ」とただただ聞き入るしかないし、真偽の判断のしようもない。